公務員、早期退職(公務員 → 民間 → アーリーリタイア)

43歳で地方公務員を早期退職し、民間勤務1年を経てアーリリタイアし専業個人投資家に転身した瀬野航太のブログです。資産運用歴は兼業時代も含めて23年。投資手法は昔ながらのアセットアロケーションです。

福井→出雲ロードバイク旅(その21)

 ロードバイクで四国一周をしたいなぁ って考えそれを実現するためにまずは、福井→出雲区間のライドで予行練習をすることになりました。前回は最終日3日目、歴史に触れたお話。今回は、いよいよ島根県に入ります。



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歴史的な遺産に数多く触れた鳥取県をあとにして、島根県に向かいます。当日は日曜日で近くの公園では、サッカーの練習の準備をしているお姉さん方を見かけました。トイレ休憩も兼ねて、少し休憩。たまにはサッカーとか野球して遊びたいなぁ なんて思いましたが、おそらく1試合目で腰をやる可能性があるでしょうねw この時点で時間は12時。昼食を取りたいぐらいですが、残り距離を考えると悠長には構えられないので甘めのコーヒーを飲み昼食に替えました。最終日、このあたりで脚も限界に来てました。とにかく、脚からパワーが出ない。ペダルを踏むんだけど踏み負ける、ペダルに跳ね返されるという感じです。仕方ないので、ギアをいつもより落としケイデンスを高めにしてトルクがない分は回転数で稼ぎます。膝痛がないのは今回は幸いでした。ロードバイク乗りの方には、膝痛を爆弾として抱える人が多いのですがこれが本当に厄介で整骨院、整形外科に行っても原因が分からず、騙し々乗っている人は多いです。さて、午後2時前に入りようやく、島根県に入りました。


  
島根県の看板を見たとき 「やっと、島根県に来たぁ」って安堵しました。


島根県の看板をスマホで撮影し、この旅もあと少しだねって感じながらも、3日目の行程を確認するとまだ、半分ほどしか走っていないことに気付きます。少し絶望w ここで残りをどうやって走るかを思案します。下図を見ていただくと、島根県に入り最終目的地出雲市に入るには、宍道湖の北側と南側を走るルートがあることがお分かりいただけると思います。宍道湖北側ルート(赤線)だと、松江市にはいりそこから出雲市までサイクルトレインで向かうことが出来るんです。逆に宍道湖南側ルート(青線)だと完全にロードバイクで自走になります。少し悩みました。脚も限界が来そうでしたし、正直いうと精神的にも疲れ果ててました。ただ、ここでサイクルトレインに頼ったら、今までの2日間の苦労が水の泡になるようにも感じていました。この時点で残り距離60km程度。時間は午後2時前。日没までには着けると判断して、宍道湖南側ルート、完全自走を選びました。ただ、ルートを少し組み替えて最短ルートを選ぶことにしました。

Googleマップより


島根県の入り口となる市町村は、安来市ですがここはドジョウが有名です。あのドジョウすくいって言う芸は、ここの安来節の一部だそうです。今回の旅の目的の一つは、ドジョウ料理を食べることでしたが、疲労と残り時間の関係でパス。こうやって振り返ると今回の旅行、少し行程に無理があったようにも感じます。ロードバイクで走り抜けるだけなら、何ら問題はありませんが観光しながらブログ用の写真も撮ってとなると時間が全然足りませんでした。ドジョウ食べたかった・・・。以前、浅草で食べたことがあったのですが、白魚のような味で大変おいしかったんです。安来のドジョウ・・・。ブツブツつぶやきながら、安来市をあとにします。


安来市、今度ゆっくり訪問します。
安来市の道の駅で休憩をしたのですが、日差しはそんなに強くなかったのですが暑さがけっこう堪えていて、脚が限界、暑い、メンタル限界の三重苦の中、走り続けて松江市に入りました。島根県の県庁所在地となりますが、中心部以外はのどかな風景も多いです。ここで走行ルートは最短距離を走るため一旦、国道9号を離れて県道247号線に入ります。のどかな田園風景と都市部では考えられないような大きな一戸建ても見受けられますが、ここで私が度肝を抜かれたのはアマチュア無線のアンテナ群!
山の頂上付近にタワーが数本見えます。
ちょっと見えませんね! トリミングしてみましょう。
なにやら各バンドのモノバンドアンテナのような感じが。
驚きのアンテナ群です。大規模なアンテナで私が直接見たのは、広島県安芸高田市の7J4某局のアンテナ群ですが、アンテナ数ではこちらの方が多いように感じます。こういうアンテナ群になるとアマチュア無線と言うよりも、もはや業務局レベルですね。誰のアンテナ群だろう? そんなことを考えながら通り過ぎます。アマチュア無線、昔はマレーシアやサイパンから海外運用もするほど、アクティブでしたが最近はサッパリです。機会を見て復活させたい気持ちはあるのですが・・。アンテナ群の近くには、他に比較的規模の大きな送電塔も見受けられました。島根原発からの送電なんでしょうかね?
中国電力の所管地域ですね。</figcaption></figure><
(その21へ続く) koumuin43.hatenablog.com

福井→出雲ロードバイク旅(その20)

 ロードバイクで四国一周をしたいなぁ って考えそれを実現するためにまずは、福井→出雲区間のライドで予行練習をすることになりました。
前回は最終日3日目、土木遺産と城下町のお話。今回は素敵な歴史を示す石碑を見つけたお話です。



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昼前になり、鳥取県大山町に入りました。このあたりで小雨が降ってきます。ヘルメットのシールドに雨粒が当たります。ペースを早めながら、西へ向かいますが本降りにはならずに雨はまもなく止みました。サイコンの記録によると当日の平均気温は32℃。一雨欲しかったりもします。

鳥取県大山町へ入る。あと少しで島根県へ。
海岸線付近に立ち並ぶ風力発電所


大山町に入り国道9号線を西へ走り続けます。交通量もそれなりにあり、気を抜くことは出来ませんが市街地を走るのに比べればペースも維持でき快適です。しばらく走ると、交差点になにやら石碑群がありました。古い石碑群ですが、周りはキレイに整備され雑草などもなく人がメンテをしていると感じさせます。さっそく、ロードバイクを停車し確認しました。石碑群は、2種類で構成され1つは、「美甘塚」、そして2つめは「山中鹿之助供養塔」でした。つまり、敵対していた戦国大名毛利氏と尼子氏方の山中鹿之助が一緒に石碑として並んでいるのです。

向かって右側が「美甘塚」、左側が「山中鹿之助供養塔」。


歴史好きとしては、これは説明の看板を含め是非見ておきたいところです。ロードバイクをしっかり駐車し、食い入るように石碑などを確認します。まず、美甘塚ですが毛利元就亡き後、その息子の吉川元春が尼子軍との戦の際、和議の使者として美甘与一右衛門が派遣しました。その際、和議には刀は不要とのことで入城時に刀は取り上げられた。和議は成立したかに思えたが、退出時に切りつけられ非業の死を遂げたと記されていました(超要約)。それを悼み碑が建立されたようです。うわぁ、卑怯だ! って感じたのですが、交渉相手は性格イケメン(大爆笑)と伝えられる山中鹿之助。こんなことあったのかなぁ?とちょっと疑問を感じたりしました。命令系統がうまく伝わっていない?



左側に顕彰会の表示も見えます。詳しいお話とか聞けるともっと色々分かるかも。

そして、もう一つの石碑の山中鹿之助ですがこちらは歴史物では男前とか性格イケメンと評される山中鹿之助の供養塔です。
山中鹿之助ってどんな人物だったんでしょう? 私も会ったことが無いので詳しくは知らないのですが(当たり前やw)、伝承によると今の島根県安来市出身の武将で主君の尼子氏滅亡後、その復興のために奔走した武将で有名です。NHKの大河ドラマでも熱い人柄という感じで役が作られていました。ただ、尼子氏復興は叶わず最後は毛利氏によって命が絶たれます。ネット検索すると、出るわ 出るわ 色々な逸話が。当然、フィクションもあるでしょうがこれだけ語り継がれるのはすごいです。


ここに限らずあちらこちらに供養塔のようなものがあるようです。


こうやって、敵味方が同じ場所に供養塔が建っているのは初めて見ましたが、毛利元就推しの私でも山中鹿之助って人物がもし、現代に蘇ったら寝返りそうですw
しばらく、戦国時代の余韻にひたり安芸高田市毛利元就郡山城を訪ねたときの記憶、そしてそこから離れたこの山陰の地まで戦が広がって多数の武将や兵が遠征していたこと、(当時ですから馬か徒歩ですよね。)を考えると昔の人、なにげにすごいなぁ なんて思いながらしばらくそこを動けずにいました。



以前、安芸高田市郡山城を訪問したときの写真。隣接する博物館もオススメ。



(その21へ続く)





このブログについて、概略と追加記載

いつも本ブログを読んでいただきありがとうございます。

ブログを開設してから、定期的に自己紹介と本ブログの紹介をしています。常連さんには、退屈でしょうがおつきあいください。追加記載事項は、赤色で記載しています。


1975年生まれ、地元の工業高校を卒業後、短期大学へ進学、自動車整備士の資格を取得するが、整備士にならずに公務員試験を受験するが不合格。その後三度目の正直で出身地の市役所にて、地方公務員(技術吏員)に合格。そして、奉職期間中に通信制大学で教養学の学士号を取得。


その後、上水道の技師、道路部門の担当(道路法に係る手続きと道路認定、陳情要望活動、道路用地の登記、立会、除雪計画の策定と実施)を経て、県庁の本庁へ派遣。しかし、業務に忙殺されることに加え今までは上位の機関であった人達に対して、指示を出す立場になり心を鬼に出来ずに上司と出先機関との板挟みでメンタル不調となり、そこから5ヶ月の休職を経て復職(上水道の技師)。復職後は、メンタル不調をやり過ごしながら7年近く過ごしていたが、増える仕事量と取れない有休、サービス残業、そして異常なクレームと陰湿な朝日新聞記者の取材に会い、メンタルも限界寸前になり43歳で退職を決意。引き継ぎの問題もあり、4月中旬で21年勤めた地元の市役所を退職しました。その為私にとっては、朝日新聞は宿敵であります。それに元より反日思想にあふれる新聞は、我が日本には不要です。(どこの新聞社?というご質問がありましたので今回、会社名を公表しました。)


退職後は、20年近く続けていた株やFXの投資を専業にして過ごしていました。しかし、市役所の道路部局にいたとき、相続に苦慮するご家族を多数見てきた経験からふと、「先祖伝来の土地の相続に問題があるので?」と感じ、調査を開始。税理士の力も借りて調査した結果、不動産が大部分の財産構成であり相続税が支払えない状況が判明。その問題解決に取り組むことになりました。問題解決の経緯については本ブログでも記載していますので、参考になれば幸いです。


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そして、退職して3ヶ月を経た頃に再就職したくなり、再就職活動を開始。そして、某商事会社の子会社に再就職しました。仕事自体は楽しかったのですが、早く一人前になれ!という上司からのプレッシャーに加え、仕事に対する考え方が私の想いと会社の間には解離があることが次第に判明しました。

・最低限のことはマニュアルのようなモノがあるのが当然と考えていましたが、それがなかった。
・品質管理という観点からも最低限のマニュアルが必要であると訴えたが、必要はないと返された。
・育成担当の上長は、直後に私のいる営業所と別の営業所の兼務となり、指導が出来る環境ではなくなった。
・変な緊張感が営業所の中に常時漂っていた。上司に対する尊敬などが感じられない発言など。


当然、私の考えが全て正しいとは考えていませんが、これだけ双方に乖離があると家庭で言うところの離婚を考えざる終えませんでした。そして「この会社にいて、私は今後芽が出るのか?」という葛藤もあり、気を利かして対応したことが全て裏目に出るというまさに空回りが続き、上司との折り合いも悪く約1年で退職しました。


40代での公務員からの転職は非常に困難と感じました。もし、これをお読みの方が公務員から民間へ転職される場合は35歳までが現実的だと考えています。ただ、むやみやたらに私は退職はしませんでした。個人投資家として20年強の経験もあり、安定した運用益を出せていたことも退職を後押ししました。


ここで公務員の民間への転職について、一言申し述べたいと思います。
公務員の転職について煽る方も多いですが闇雲にオススメはしません。ツィッターやネットなどで出てくる方は、元より能力値の高い方です。能力が高いか低いかは、ご自分が一番知っているはずです。その上で慎重にご判断をして頂きたいと思います。さらに最近、会計年度任用職員を数年勤めただけで公務を知った気になって、ブログを書いたり動画を上げたりする人も見受けられます。公務員ってそんな浅い仕事じゃありません。真剣に取り組めば奥が深く、魅力的な仕事です。なのでそういうPV数を上げるために煽るような人達の言葉には、惑わされないでください。あなたの人生です。選択を間違っても彼らは責任は取ってくれません。



そんな私ですが民間で仕事をしている1年の間に相続問題も解決の目処が立ち、問題解決のために進めてきた土地の売却代金を投資に段階的に追加投入することも可能になりました。11月2日現在、総資金額は1億円を超え、うち運用に用いる資金額は7,800万円となっています。


投資手法は、20年かけて自分なりにアレンジした、タクティカルアセットアロケーション、バリュー投資が主ですが最近は、お小遣い稼ぎレベルで個別株もやっています。FX投資は、過去には大きな利益をもたらしてくれましたが、リスクに見合うリターンが得られなくなっていると判断しており、新規の建て玉はここ1年近く建てていません。含み損もあるので、近い将来全て決済し撤退も考慮しています。全体の運用成績については、20年の運用成績を均すと年5~6%確保出来ています。しかし、相続問題も解決に向かったことと、手元資金が潤沢になったことから現在、目標運用利回りを年2%に下げてリスクを落とす方向に最近、方針転換を行いました。


民間企業を辞めた後の生活ですが、両親が高齢であることからそちらの対応と私自身は、余暇を楽しみたいと言うことで1週間のうち4日程度は、資産運用の仕事に従事しそれ以外の日は、ロードバイクの練習や趣味の時間に充てています。実質週休3日制ですね。正直言うと、刺激が少なく物足りないのも事実ですがこの歳で再就職は、なかなか厳しく妥協と自分の希望をすりあわせた結果の生活と言えます。ただ、最近はロードバイクにドップリハマってしまいレースに出たり先日は、四国一周1000kmロードバイクの旅をしたりとまるで仕事のようになっています。こちらもブログで紹介していきますので、是非ご覧ください。

そんな元・公務員47歳の生活を書いているのが本ブログです。


今後は、資産運用、趣味のロードバイクを中心に書いていく予定です。特に資産運用に関しては原則的に5,8,11、2月にアセットアロケーション比率を開示します。11月分は遅れていますが、中旬頃には開示予定です。なお、ツィッターでは逐次、書き込みをしていきます。ご感想等も頂ければ幸いです。



私の投資に関する書き込みはこちらにまとめてあります。
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筆者近影。四国一周1000kmロードバイクの旅、愛媛県にて





福井→出雲ロードバイク旅(その19)

 ロードバイクで四国一周をしたいなぁ って考えそれを実現するためにまずは、福井→出雲区間のライドで予行練習をすることになりました。前回は2日目の夜のカロリーオーバなお食事のお話。今回は最終日の3日目のお話ですが、城下町と土木遺産のお話になります。

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福井から走って出雲を目指す旅もいよいよ最終日になりました。天気にも恵まれました。本日は鳥取県から島根県に入り最終目的地は、出雲市駅前のホテルアルファワン出雲です。このホテルは、過去に2回宿泊しており勝手知ったる云々ですし併設の居酒屋もお気に入りなので朝から気分が上がります。倉吉駅前を出発したのが9:30頃。3日目になると疲労も蓄積してきて、朝が起きづらくなってきました。本当はもっと早朝に出発できるいいんですがね。

新しいSPDシューズも快適です。インソールだけ取替済み。
昨夜は疲労困憊で撮影できなかった倉吉駅前にて。
9:30頃になると通勤時間帯も終わり閑散とする倉吉駅前。


倉吉駅前を少し散策しました。なにやらこのあたりには羽衣伝説があるようで、その銅像が設置されていました。この羽衣伝説は、各地に伝えられており滋賀県には余呉湖周辺にも類似した伝説が伝えられています。




倉吉駅前を出発して数分、広い駐車場が見えたかと思ったらPCR検査場が見えました。昨晩は、一件目の居酒屋は貸し切り、二件目もそれなりに混んでいて感染予防策をしているとは言え、片方では人の集まるところを規制せず。ほんの数百メートル先では感染者の把握を行うという、私の目には矛盾したような行為が繰り広げられていました。今回の政府のコロナ対策の迷走ぶりを感じた一幕でした。


倉吉駅前でのPCR検査の風景

そんなことをぼやきながら、3日目の旅は進み北栄町に入ります。この北栄町、マンガの名探偵コナンの作者の出身地だそうで地元の商店街にはコナン関連のモノが多数ありました。鳥取県は、鳥取砂丘コナン空港もですが名探偵コナン関係が多いですね。こういうやり方、異論も多いとは思うのですがなんとかして特色を出そうという姿勢は評価できますし、なにもしない他の行政や組織は見習って欲しいと思いました。私は名探偵コナンは、あまり見たことがないので世界観には浸れませんでしたがマニアにはたまらないかもしれません。


  



北栄町をぬけると琴浦町に入ります。


琴浦町に入ったあたりで少しあたりが暗くなってきました。空を見上げると、厚い雲が! もしや、雨が降る? 慌ててスマホアプリで雲の動きを見ますが今のところは、大丈夫そうです。少し安心して先を急ぐことにしましたが、しばらく走るといきなり道が曲がります。

厚い雲が天候の悪化を示唆?
こういう道の作りにはなにかあります。


こういう道の作りは、古い町並み。特に城下町によくあります。敵兵がせめてきた場合、時間を稼いだり奥まで見通せなくするための工夫です。案の定、周りを見渡すと解説の看板がありました。こういうのは、観光客には大変ありがたいです。帰宅後、調べてみるとこのあたりは、八橋(やばせ)と呼ばれる地域で戦国時代からの水陸運の要衝で戦国大名尼子氏と毛利氏の争った地域のようです。実は、このあと少し走ったあとに、尼子氏と毛利氏の関係する石碑などを見つけるのですがそれはこの後のブログで詳しく触れます。ちなみにこの地域は、小泉八雲夫妻が旅行に訪れていた地域でそれを記載した看板も設置されていました。見た感じ、旧の街道沿いのような感じでしたのでひょっとすると、この道を江戸時代は参勤交代や旅人が歩んでいたのだと思います。いつの日か、こういう旧街道を使って参勤交代をなぞるような感じでお江戸へロードバイクで行ってみたいですね。


しばらく、走ると少しルートを間違えて海に出てしまいました。元のルートへ戻ろうかと思いましたが、少し先を見るとなにやら興味をそそられるようなモノを見つけました。最近、この手のモノを嗅ぎ分ける能力が高まったような気がしていますが気のせいだろうか? 冗談はさておき、自動車だと気付かず通り過ぎてもロードバイクだと色々と見つけることが出来ます。これも自転車旅行の醍醐味かもしれませんね。


なにやらドラマの一場面に出てきそうな雰囲気。


さっそく、近づいて確認すると・・・

でました! 土木遺産のプレート

土木遺産のプレートがある以上、これは素通りできません。現地には案内板もありましたので、それを参照するとこれは菊港と呼ばれる港で1657年頃に修築され当時、江戸で大火がありその際にここから材木を運び出したとのこと。見た感じ、近代化改修もされたようですが基本的には変わってないように感じました。重機もなかった時代、人力で石を運び海に捨ててそれを積み重ねて船着き場の形状にしたなんて当時の人達の我慢強さには、驚きますし併せて当時の土木技術は意外と水準が高かったのかも知れません。

 



鳥取県庁のHPに解説がありました
P-1 菊港/とりネット/鳥取県公式サイト



(その20へ続く)
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