公務員、早期退職(公務員 → 民間 → アーリーリタイア)

43歳で地方公務員を早期退職し、民間勤務1年を経てアーリリタイアし専業個人投資家に転身した瀬野航太のブログです。資産運用歴は兼業時代も含めて23年。投資手法は昔ながらのアセットアロケーションです。

福井→出雲ロードバイク旅(その20)

 ロードバイクで四国一周をしたいなぁ って考えそれを実現するためにまずは、福井→出雲区間のライドで予行練習をすることになりました。
前回は最終日3日目、土木遺産と城下町のお話。今回は素敵な歴史を示す石碑を見つけたお話です。



以前の書き込みはこちらからどうぞ↓
koumuin43.hatenablog.com



昼前になり、鳥取県大山町に入りました。このあたりで小雨が降ってきます。ヘルメットのシールドに雨粒が当たります。ペースを早めながら、西へ向かいますが本降りにはならずに雨はまもなく止みました。サイコンの記録によると当日の平均気温は32℃。一雨欲しかったりもします。

鳥取県大山町へ入る。あと少しで島根県へ。
海岸線付近に立ち並ぶ風力発電所


大山町に入り国道9号線を西へ走り続けます。交通量もそれなりにあり、気を抜くことは出来ませんが市街地を走るのに比べればペースも維持でき快適です。しばらく走ると、交差点になにやら石碑群がありました。古い石碑群ですが、周りはキレイに整備され雑草などもなく人がメンテをしていると感じさせます。さっそく、ロードバイクを停車し確認しました。石碑群は、2種類で構成され1つは、「美甘塚」、そして2つめは「山中鹿之助供養塔」でした。つまり、敵対していた戦国大名毛利氏と尼子氏方の山中鹿之助が一緒に石碑として並んでいるのです。

向かって右側が「美甘塚」、左側が「山中鹿之助供養塔」。


歴史好きとしては、これは説明の看板を含め是非見ておきたいところです。ロードバイクをしっかり駐車し、食い入るように石碑などを確認します。まず、美甘塚ですが毛利元就亡き後、その息子の吉川元春が尼子軍との戦の際、和議の使者として美甘与一右衛門が派遣しました。その際、和議には刀は不要とのことで入城時に刀は取り上げられた。和議は成立したかに思えたが、退出時に切りつけられ非業の死を遂げたと記されていました(超要約)。それを悼み碑が建立されたようです。うわぁ、卑怯だ! って感じたのですが、交渉相手は性格イケメン(大爆笑)と伝えられる山中鹿之助。こんなことあったのかなぁ?とちょっと疑問を感じたりしました。命令系統がうまく伝わっていない?



左側に顕彰会の表示も見えます。詳しいお話とか聞けるともっと色々分かるかも。

そして、もう一つの石碑の山中鹿之助ですがこちらは歴史物では男前とか性格イケメンと評される山中鹿之助の供養塔です。
山中鹿之助ってどんな人物だったんでしょう? 私も会ったことが無いので詳しくは知らないのですが(当たり前やw)、伝承によると今の島根県安来市出身の武将で主君の尼子氏滅亡後、その復興のために奔走した武将で有名です。NHKの大河ドラマでも熱い人柄という感じで役が作られていました。ただ、尼子氏復興は叶わず最後は毛利氏によって命が絶たれます。ネット検索すると、出るわ 出るわ 色々な逸話が。当然、フィクションもあるでしょうがこれだけ語り継がれるのはすごいです。


ここに限らずあちらこちらに供養塔のようなものがあるようです。


こうやって、敵味方が同じ場所に供養塔が建っているのは初めて見ましたが、毛利元就推しの私でも山中鹿之助って人物がもし、現代に蘇ったら寝返りそうですw
しばらく、戦国時代の余韻にひたり安芸高田市毛利元就郡山城を訪ねたときの記憶、そしてそこから離れたこの山陰の地まで戦が広がって多数の武将や兵が遠征していたこと、(当時ですから馬か徒歩ですよね。)を考えると昔の人、なにげにすごいなぁ なんて思いながらしばらくそこを動けずにいました。



以前、安芸高田市郡山城を訪問したときの写真。隣接する博物館もオススメ。



(その21へ続く)